『ハルチカ』は佐藤勝利のモラトリアム
こんにちは、久しぶりのはてなブログです。
初日にハルチカを2回観てきました。
知っていたけれど。十分知っていたけれど。 本当に、きれいだったよ、勝利くん…
さて、今回のブログの趣旨は『ハルチカは、佐藤勝利のモラトリアムである。』
※ハルチカのネタバレてんこもりです。
さて、始めます。
幾度か言っているんですけど、佐藤勝利は早く大人になりすぎた、とわたしは思っていて。同時に、いつまでも少年と大人の狭間にいると思っていて。
矛盾してるようだけど、わたしの中ではこれはイコールなんです。
大人になりきれないうちに(=子どもじゃないと経験できないことを経験しないままに)大人にならざるを得ないといけない状況に追い込まれると、人は大事なものが抜け落ちたまま「大人のようなもの」になるんじゃないか、と。
「子どもじゃないと経験できないこと」っていうのは人それぞれだけど、例えば、人に甘える、とか、わがままをいっぱい言う、とかそういうこと。
わたしは、勝利はそういう経験をすっぽかして、「大人のようなもの」になってしまったんじゃないか、と少し思っていました。いつかこの子は、頑張りすぎて折れてしまうんじゃないか。そんな怖さを時々感じていました。言いようのない不安定さと、緊張感が彼にはあって。もちろん、そんなところが好きでもありました。
でも、先日サマパラのDVDを観たら、違和感を感じたんです。
これは、今までの佐藤勝利と何かが違う。これは「大人」になりかけている、と。
高揚しました。身体が震えました。
何が少年を大人にしたのか、何が佐藤勝利を次のステージへと押し上げたのか。わたしは考えました。でもわからなかった。考えても考えても、わたしにはわかりませんでした。
でも、今日ハルチカを観て思ったんです。勝利の変化の一因としてこの映画はあるのではないか、と。
さて、本題です。
わたしがハルチカから受けた印象は、「佐藤勝利のモラトリアム」でした。
佐藤勝利の青春の疑似体験なんじゃないか、と思ったんです。
49を観たときも同じようなことを感じたけれど、そのときよりも強烈な感情でした。
その曖昧な感情をたどるうちに、わたしは自分の中で、あるフレーズを見つけます。
「この映画は、佐藤勝利の19歳の全てなんだ」
そう思った瞬間、すべてが腑に落ちました。そう思った瞬間に、泣きました。
わたしの中にいる佐藤勝利は、いつだって痛々しいほど緊張感を持った子でした。頑張っていることをファンは感じているけれど、勝利自身はそれを表に出さない。本人が言うように「できて当たり前の子」として見られてく。わたしには想像できないけれど、勝利を取り巻く世界はたぶんとっても生きにくい。でもそれを感じさせずに、勝利は「アイドル」でいてくれる。そういうところが大好きで、でも少しだけ切なくて。
そんな佐藤勝利が、あの映画の中では「頑張りすぎな、ひとりの男の子」として生きていた。
強くなることを強要されない世界に生きていた。
だから思ったんです。
『ハルチカ』はハルタの物語であるとともに、佐藤勝利の物語でもあるんじゃないか。
過労で倒れて、草壁先生に諭されるシーンで、わたしはハルタに佐藤勝利自身を重ねました。これから佐藤勝利が進む世界はきっと美しい。でも同時に同じくらい、厳しくてきっと傷つくこともある。そんなときに佐藤勝利にひとりで戦ってほしくない。
たぶん勝利には一人で解決する器用さはあるけれど、少なくともわたしは、もう傷ついてそれを無理やり隠していくような様は見たくない。
勝利は器用であることが、最大の不器用を招いているから。
草壁先生は、佐藤勝利に伝えたかったことを全部伝えてくれました。
そして映画が進むにつれて、ハルタは、もうひとりの勝利なんじゃないか、ともわたしは思い始めました。
音楽に傾倒し、等身大の男の子として生きる。これは、佐藤勝利が持ちえた未来なのかもしれない。勝利自身も望んだことのある形なのかもしれない。
そんなあったかもしれない未来や過去を、『ハルチカ』という映画を通じて、佐藤勝利は今描いているのかもしれない。
そうして、この『ハルチカ』というモラトリアムを経て、佐藤勝利は大人になっていく。大人になれなかった少年が、大人になろうとしている。そんな気がしました。
人よりずっと繊細な彼は、きっととても生きていきにくい人で。そしてとてもやさしさに敏感な人で。いつだって全身全霊をすぐにかけてしまって。でもそんなところが誰より綺麗で。
とりわけ『ハルチカ』という映画の彼は、本当に儚くて一瞬のものだったように思います。
大人と子供の狭間で、彼はまた全身全霊をかけていた。それでも「できないことを0にしたい」とクランクアップで泣く、その必死さが、またとても綺麗で。
たぶん、19歳という、最後の10代を映画に閉じ込めて、彼は大人になっていく。ここに、佐藤勝利は自分の10代と青春を置き去っていく。
この『ハルチカ』という映画自体が、佐藤勝利のボイコットであり、箱庭であり、モラトリアムである。
そんなふうに感じました。
だからこそ、いちばん最後の、ハルタが屋上でホルンを吹くシーンがとても切なかった。先生たちが「演奏をやめろ」っていう声から、どこか青春の終わりを感じちゃって。
そして演奏を終え、ハルタはチカちゃんを見て笑います。笑って、そして何かを耐えるように見つめて、また微笑みます。
片側には青春の入口に立ったチカちゃん、片側には大人の草壁先生、その狭間のハルタ。
ああ、ここで彼のモラトリアムは終わるんだ。そう思うと同時に画面いっぱいに題字が出て、本当の終わりを悟りました。
この映画の勝利は、子どもでも大人でもなかった。
希望と模索と無茶にあふれた思春期だった。それはわたしが佐藤勝利に送ってほしかったもので。
だから、
勝利がハルチカという映画に出て良かった。
ホルンという楽器に出会って良かった。
サマパラでホルンを吹く君は今まででいちばんかっこよくて、いちばん、大人びていたよ。
佐藤勝利の「少年性」がどこまで続くのか私にはわからないけど、この映画はきっと転機なんだと思います。きっと勝利は人生の中でいちばん美しい一瞬を、映画っていう芸術として切り取った。
ほんとうに、美しくて、儚い人だな、って。
たくさん思い込みを書き綴りましたが、主題は「『ハルチカ』は佐藤勝利のモラトリアムである。」
本当に、本当に、良い映画でした。
2017.03.05 公開
2017.05.20 加筆修正
円盤が楽しみです。またハルタくんに会いたい。