Sexy Zoneへ、愛を込めて

 

 

こんにちは、たま子です。

 

めちゃくちゃ久しぶりのブログです。毎日まいにち、Sexy Zoneが好き!って気持ちが溢れてしょうがないので、恐る恐る筆を取りました。

相変わらずポエムを書き綴ると思います!恥ずかしいので先に言っときます!

 

 

さて、さっきも書いたように、最近の私はSexy Zoneが好きで好きでたまらないです。毎日ときめきとか、幸せとか、色んな感情を感じながら生きています。そりゃもう自分でびっくりするほどに。

 

そこで、この気持ちに理由をつけてみようと思いました。きっと感情には理由があるはずだから。よって、

 

議題:なんで私はSexy Zoneが好きなのか

 

ということで。ゆるゆると始めていきます。

 

 

 

 

理由① Sexy Zoneはめちゃくちゃかっこいい

 

分かりきったことを言ってすいません。


いやだって、

 

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かっこいいじゃん…。


顔面が良い。顔面偏差値が限界突破してる。

更にこの子達、スタイルも良い。

 

 

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すごい、天が二物を与えてる。

 

あとね、私は顔が造形として綺麗っていうのもだけど、表情が本当に好きなんです。

 

だって、こんな顔も

 

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こんな顔も

 

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全部好き!

素直でキラキラしてて見てるだけで嬉しくなっちゃう。

笑った顔も怒った顔も大好きでしたおかしいよね~~~!!!!()

 

まあ兎にも角にも、私はSexy Zoneがかっこよくて大好きです。

 

 

 

 

理由②Sexy Zoneは優しい

 

さて2つ目です。

 

Sexy Zoneって、とにかく優しいと思います。

そう思う根拠は、Sexy Zoneは、私の気持ちを否定したことがないからです。

 

 

最初に書いた通り、私はSexy Zoneが好きで好きで堪らないです。

けれどその「好き」という気持ちは、ここ数年で徐々に変化しています。

 

けど、どの好きも否定されたことがないんです、私は。

そのことが嬉しい。

 

Sexy Zoneは今年、再スタートを切るライブをしてくれました。

 

「xyz=repainting」

今までの色を否定しない。そこに塗り足す。

 

この主題はまさしく私が求めていた優しさでした。

 

めちゃくちゃわがままだと思うけど、たぶんオタクというのは「好きになった頃の彼ら」「好きだった彼ら」を無意識に求め続けると思うんです。

なぜならそこには、そのときの彼らに持った感情が残り続けているから。

その感情を追いかけることがたぶん「オタクをする」ってことだと思うんです。

だから、オタクを辞めるときというのは、そのときの気持ちを思い出せなくなったときだと私は思うんです。

 

そんな持論をもっている私の前に、Sexy Zoneは「repainting」をいう主題を打ち出してくれました。

 

それは変わらない気持ちを求める私を、肯定してくれることでした。

もう何度思い返しても私はこの優しさが嬉しくて嬉しくて。

 

たぶんSexy Zoneってこれから数年間で大きく変わっていくと思うんですけど、たぶん私たちを置いてけぼりにはしていきません。

みんなでてっぺん目指そうとしてくれる。

 

うわ~~~…だいすき。めちゃくちゃ好き。好きが溢れちゃう。

 

もう困っちゃうくらいにそういうところが、優しくて大好きだよ。

 

 

 

 

理由③Sexy Zoneは尊敬できる

 

この理由が最後の理由です。

 

言うまでもないけど、私はSexy Zoneを尊敬しているんです。

 

かっこよくて、素直で、真っ直ぐで、努力家な、優しい人たち。

 

これが私の見ているSexy Zoneです。尊敬しないわけがない。

 

私のこの気持ちは、尊敬であり、そして自己愛だと思います。彼らに自己投影をして、たまらない気持ちになっている。

 

自己投影をしているからこそ、私は彼らの些細な言動に影響され、そして尊敬します。自己投影をしているからこそ、自らにはできないことをする彼らのことを愛します。

 

アイドルという職業のSexy Zoneは、いつも私に夢をくれます。

それは職業としては当たり前なのかもしれないけれど、私にとっては当たり前じゃありません。だって私にはできないから。

 

だから、彼らを尊敬します。

 

この気持ちは自己愛かもしれない。でも、私は彼らの、そんな尊敬できるところがとっても好きなんです。

 

 

 


さて、好きな理由を3つあげましたが、彼らには私の言葉にできないほどの素敵なところが他にもいっぱいあります。

 

 

季節が春から夏に変わる頃、彼らは今年もツアーを終えました。

 

このひと月半くらい、私のTLは毎日Sexy Zoneが好きな女の子たちで溢れていました。

みんなネイルが乾くの待ち切れなかったり、ベビーピンクのルージュ買ったり。とってもとっても、幸せな時間でした。

 

私は、そんな時間をくれた彼らに、ありがとうって言いたいです。


いつも幸せをくれてありがとう。

優しさをいっぱいくれてありがとう。

アイドルでいてくれてありがとう。

ステージを愛してくれてありがとう。

 

私を、否定しないでくれてありがとう。

 

 

私は、そんなあなたたちが大好き。

言葉にできない程の愛を込めて、私は言います。

 

 

私に、この気持ちを教えてくれてありがとう。

 

 

 

いつかあなたたちにこの恩返しができますようにって、私は今日も思います。

『ハルチカ』は佐藤勝利のモラトリアム

 

こんにちは、久しぶりのはてなブログです。

初日にハルチカを2回観てきました。

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知っていたけれど。十分知っていたけれど。 本当に、きれいだったよ、勝利くん…

 

さて、今回のブログの趣旨は『ハルチカは、佐藤勝利のモラトリアムである。』

 

ハルチカのネタバレてんこもりです。

 

 

 

 

さて、始めます。

幾度か言っているんですけど、佐藤勝利は早く大人になりすぎた、とわたしは思っていて。同時に、いつまでも少年と大人の狭間にいると思っていて。

矛盾してるようだけど、わたしの中ではこれはイコールなんです。

大人になりきれないうちに(=子どもじゃないと経験できないことを経験しないままに)大人にならざるを得ないといけない状況に追い込まれると、人は大事なものが抜け落ちたまま「大人のようなもの」になるんじゃないか、と。

「子どもじゃないと経験できないこと」っていうのは人それぞれだけど、例えば、人に甘える、とか、わがままをいっぱい言う、とかそういうこと。

わたしは、勝利はそういう経験をすっぽかして、「大人のようなもの」になってしまったんじゃないか、と少し思っていました。いつかこの子は、頑張りすぎて折れてしまうんじゃないか。そんな怖さを時々感じていました。言いようのない不安定さと、緊張感が彼にはあって。もちろん、そんなところが好きでもありました。

でも、先日サマパラのDVDを観たら、違和感を感じたんです。

 

これは、今までの佐藤勝利と何かが違う。これは「大人」になりかけている、と。

 

高揚しました。身体が震えました。

何が少年を大人にしたのか、何が佐藤勝利を次のステージへと押し上げたのか。わたしは考えました。でもわからなかった。考えても考えても、わたしにはわかりませんでした。

 

でも、今日ハルチカを観て思ったんです。勝利の変化の一因としてこの映画はあるのではないか、と。

 



さて、本題です。

わたしがハルチカから受けた印象は、「佐藤勝利のモラトリアム」でした。

 

佐藤勝利の青春の疑似体験なんじゃないか、と思ったんです。

49を観たときも同じようなことを感じたけれど、そのときよりも強烈な感情でした。

その曖昧な感情をたどるうちに、わたしは自分の中で、あるフレーズを見つけます。

 

「この映画は、佐藤勝利19歳の全てなんだ」

 

そう思った瞬間、すべてが腑に落ちました。そう思った瞬間に、泣きました。

 

わたしの中にいる佐藤勝利は、いつだって痛々しいほど緊張感を持った子でした。頑張っていることをファンは感じているけれど、勝利自身はそれを表に出さない。本人が言うように「できて当たり前の子」として見られてく。わたしには想像できないけれど、勝利を取り巻く世界はたぶんとっても生きにくい。でもそれを感じさせずに、勝利は「アイドル」でいてくれる。そういうところが大好きで、でも少しだけ切なくて。

 

そんな佐藤勝利が、あの映画の中では「頑張りすぎな、ひとりの男の子」として生きていた。

強くなることを強要されない世界に生きていた。

 

だから思ったんです。

ハルチカ』はハルタの物語であるとともに、佐藤勝利の物語でもあるんじゃないか。

 

過労で倒れて、草壁先生に諭されるシーンで、わたしはハルタ佐藤勝利自身を重ねました。これから佐藤勝利が進む世界はきっと美しい。でも同時に同じくらい、厳しくてきっと傷つくこともある。そんなときに佐藤勝利にひとりで戦ってほしくない。

たぶん勝利には一人で解決する器用さはあるけれど、少なくともわたしは、もう傷ついてそれを無理やり隠していくような様は見たくない。

勝利は器用であることが、最大の不器用を招いているから。

草壁先生は、佐藤勝利に伝えたかったことを全部伝えてくれました。

 

そして映画が進むにつれて、ハルタは、もうひとりの勝利なんじゃないか、ともわたしは思い始めました。

音楽に傾倒し、等身大の男の子として生きる。これは、佐藤勝利が持ちえた未来なのかもしれない。勝利自身も望んだことのある形なのかもしれない。


そんなあったかもしれない未来や過去を、『ハルチカ』という映画を通じて、佐藤勝利は今描いているのかもしれない。


そうして、この『ハルチカ』というモラトリアムを経て、佐藤勝利は大人になっていく。大人になれなかった少年が、大人になろうとしている。そんな気がしました。

 

人よりずっと繊細な彼は、きっととても生きていきにくい人で。そしてとてもやさしさに敏感な人で。いつだって全身全霊をすぐにかけてしまって。でもそんなところが誰より綺麗で。

とりわけ『ハルチカ』という映画の彼は、本当に儚くて一瞬のものだったように思います。

大人と子供の狭間で、彼はまた全身全霊をかけていた。それでも「できないことを0にしたい」とクランクアップで泣く、その必死さが、またとても綺麗で。

 

たぶん、19歳という、最後の10代を映画に閉じ込めて、彼は大人になっていく。ここに、佐藤勝利は自分の10代と青春を置き去っていく。

この『ハルチカ』という映画自体が、佐藤勝利のボイコットであり、箱庭であり、モラトリアムである。

そんなふうに感じました。

 

だからこそ、いちばん最後の、ハルタが屋上でホルンを吹くシーンがとても切なかった。先生たちが「演奏をやめろ」っていう声から、どこか青春の終わりを感じちゃって。

そして演奏を終え、ハルタはチカちゃんを見て笑います。笑って、そして何かを耐えるように見つめて、また微笑みます。

片側には青春の入口に立ったチカちゃん、片側には大人の草壁先生、その狭間のハルタ

ああ、ここで彼のモラトリアムは終わるんだ。そう思うと同時に画面いっぱいに題字が出て、本当の終わりを悟りました。

 

この映画の勝利は、子どもでも大人でもなかった。

希望と模索と無茶にあふれた思春期だった。それはわたしが佐藤勝利に送ってほしかったもので。

 

だから、

 

勝利がハルチカという映画に出て良かった。

ホルンという楽器に出会って良かった。

 

サマパラでホルンを吹く君は今まででいちばんかっこよくて、いちばん、大人びていたよ。 

 

 

佐藤勝利の「少年性」がどこまで続くのか私にはわからないけど、この映画はきっと転機なんだと思います。きっと勝利は人生の中でいちばん美しい一瞬を、映画っていう芸術として切り取った。

 

ほんとうに、美しくて、儚い人だな、って。



たくさん思い込みを書き綴りましたが、主題は「『ハルチカ』は佐藤勝利のモラトリアムである。」

 

 

本当に、本当に、良い映画でした。

 

2017.03.05          公開

2017.05.20          加筆修正

 

円盤が楽しみです。またハルタくんに会いたい。

 

佐藤勝利くんの20歳を頑張って受け止めるおたくの文章

あばあばばばばばばあfssばばsdsでぇうあばdsふぁ勝利くんが20歳になっちゃうどうしよう~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~^!!?!!?!?!?!?!?!?!?!?!?!

 

 

ずーーーーーーーーーーっと前から、佐藤勝利くんの20歳のお誕生日には絶対にブログを書くって決めてた。なんてったって私の大事な大事な息子自担の成人だから。今抱えてる色んな気持ちをちゃんと言葉にしようって決めてた。だから、下書きには「20歳の佐藤勝利くんをどう受け入れるか」っていうめちゃめちゃ真面目なブログがひと月くらい前からあった。何度も書き加えながらなんとか形にしたブログだった。で、今、前日、10月29日の23:17になってそれを推敲した。ポエムながらも思考的なことを一生懸命書いてた。でもさ、完全に脳死してる状態で読んだら思っちゃった。

 

 

今のわたし、ぜってえこんなこと思ってねえ。

 

 

 

いやだってこういう状況ですし。

 

 

 

 

冷静さも客観性もまるで持てない。今日一日、手が時々痙攣して、常に緊張で吐きそうな感じだった。そういうわけで、まともな文を破棄して、こうして全く違う文章を書いてる。23:19。日付が変わる前に書き終われるかな…?まあ無理だろうね。しょうがない。

 

 

まあ自分に正直になって、元々投稿するつもりだった文章をちょっとずつ引っ張ってきながら、ちょっとずつ書いてみます。

 

まず、勝利ちゃん。

 

大きくなったねええええええええええええええええええええ(;;)(;;)(;;)

 

本当に本当に大きくなった。こんなに成長するなんて思ってなかったよ…。

だって、私が出会ったときの勝利くんは18歳になったばっかりだった。高校生だった。「着られてる感」満載のスーツを着て、「好きなんだよマジで!」と途中でお兄さんが叫ぶとんちきな歌を歌っていた。それはそれは可愛かったよ。お兄さん二人に挟まれて、ちっちゃい顔と細い体躯が目立ってさ。ほんとうに、ほんとうに…可愛かったんだよ…

ぎゅって結んだ唇とかさ、初々しい伸びない声とかさ…二次元みたいな美少年だった。

そんな彼が、20歳。…20歳。お酒も飲める、たばこも吸える。…え?まじ?嘘やろ…?嘘だと言ってよ誰か…。

 

本音はこんな感じだけど、今から私は少し大人になろうと思う。勝利くんだって人間なんだ…その事実をなんとか理解していく。そりゃ年もとるし、睡眠もとるし、排泄だってする。…ちょっと興奮しますね。

 

話がそれた。

 

散々、モンペとしての心情を語ったけど、私は勝利の20歳を歓迎していないわけじゃない。…手がアル中のように震えるのは止まらないけど。ミスタイプがひどい。

 

そろそろ脊髄反射で書くこの文章をなんとか建設的なものにしていきたい。人間は考えられる生き物なはずなんだ…。

 

あ、やばい。あと、6分で勝利くんが20歳になる。

 

たぶん、勝利くんの10代は、あと6分後に、これ以上ない価値を持つ。いや、自分でも何を言ってるかよくわからないんだけど。

 

佐藤勝利くんの10代は、終わることでひとつの形を持つんだな、と思う。ひとつの芸術品の完成だ。

 

本当は、勝利くんの10代が終わることが辛くて惜しくてたまらない。ずっと少年でいてほしい。成人なんてしないでほしい。でも、少年は、たぶん終わるから美しくて、こんなに惜しいんだと思う。当たり前だけどね。過ぎるから、時間には価値が生まれる。

 

勝利くんの、少年としての時間は、もう終わる。これから先は大人って言われる。

でもね、私にとっては勝利くんはまだ少年で、これから先も少年。「誰より美しい少年時代を過ごした」という事実だけが、そこにある。

 

ずーっと少年でいてほしかったよ、勝利くん。でも、少年としての時間が終わることで、勝利くんの少年時代は何にも代えがたい、美しいものになったよ。

 

いま、もう12時を過ぎちゃった。イヤホンからは偶然「私のオキテ」が流れてる。運命かな?ちょっと涙が出てきちゃった。

 

深呼吸してる。

 

もう、書きたいことはあらかた書いたし、たぶんこれ以上書いてもどんどん頭が悪くなっていきそうだから、このへんで終わる。

最後に、もともと投稿したかったブログで一か所だけどうしても入れたかったところがあるから、それを継ぎ足して終わりにする。

 

 

 

佐藤勝利は少年から大人になる。当たり前だけど。

でも、勝利くんはいつだって狭間にいる。少年であり続ける。

ハルチカのクランクアップで泣いた彼を見て思った。勝利くんが大人になってしまう日は来ない。自己を探求するのをやめた、人間になる日は来ない。

 

秋と冬の狭間に生まれて、子どもと大人の間にいる勝利くん。

ドラマみたい。ほんとうに、きれいだ。

 

 

もう、書くことはほんとにない。手の震えがちょっと収まった気がする。0:22。だいぶ過ぎちゃった。

勝利くん、改めて20歳のお誕生日おめでとう。

しょりそうについて考えてみた

 

 

タイトルまんまです。

じんわりやわやわ考えてみよう。自己満足と息抜きのために。

 

①しょりそうって何だろう。

②なんでしょりそうが好きなんだろう。

③しょりそうのこれからってどうなるんだろう。

 

考察対象はこのへん。

どの作業より進みそう。参考資料は各ドル誌、TV、コンサート。けどいちばん使うのはは私の妄想。いちおたくが、今をときめくきらきらアイドルについて考えてみよう。

 

 

 

①しょりそうって何だろう。

 

自分でも何言ってんだって思う。しょりそうはしょりそう。Sexy Zone佐藤勝利松島聡。いやでも別にそういうことが言いたいんじゃなくて、あのふたりの関係に何かしらの形を持たせたい、個人的に。

 

本人たち曰く『ingの関係』 

 

わかる、わかる、超わかる。ジャニオタポエマーがつけたんじゃないかってくらい、ジャニオタが好きそうなフレーズ。本人からこの言葉が出たのって相当ヤバイ。おたくがごちゃごちゃ言う前に、本人たちが明確な答えをくれちゃった。

だから、考察①はろくに考える必要がなくなっちゃった。本人たちが言ってくれちゃったからね。

しょりそうは『ingな関係』

なるほど。了解。

 

 

②なんでしょりそうが好きなんだろう。

 

これがたぶん主題になるのかな。

でも、これもほぼほぼ①で答えが出ちゃってる気もする。

『ingな関係』だから、好き。

変わるものを追いかけるのって、めちゃめちゃに楽しい気がする。少なくとも私は超楽しい。から、しょりそうはこんなに吸引力がやばい。

しょりそうは本人たちが『ingな関係』ってなんていうずるいことを言ってしまったおかげで、ファンを掴んで離さない2人になってしまったなと思う。だってそれって、どんな形でも受け入れるってことじゃん、とか。

あるファンは、男子高校生みたいな青春を体現した『しょりそう』として見て、あるファンはライバルとして切磋琢磨しあう『しょりそう』として見る、みたいな。つまり、しょりそうは見る人によって形を変えるふたりなんじゃないか、って思う。そのへんが、個人的にすごく、ずるい。

 

ジャニオタになってから思うけど、消費する側が自分という要素をどこかに投影するコンテンツって強い。

「リア恋」にしても「モンペ」にしても、それって自分のファンのあり方を示すわけであって、ジャニオタ用語にはそういう言葉がいっぱいある。ジャニオタの本能というかもはや女の本能ですらあるんじゃないかと思う。そのへんのくすぐり方が、しょりそうは図らずもめちゃめちゃ上手い、個人的に。

 

しょりそうは『ingな関係』って形を自らに与えたことで、自分たちが変わっていくことをファンに許容させたし、ファンが自分たちを変わったって捉えることも許した。

さっきも言ったけど、本人たちにその意識は全然ない。もうほんとにそのへんが、ずるくて、好き。

しょりそうには、商業的な匂いがない。もちろん需要は理解しているけど、それは事実としてあるだけで、そこから発展しない。

それが、ファンにとってはめっちゃ楽しい。

 

 

これは、結構前のツイートだけどさ。

 

しょりそうはめちゃめちゃに自由度が高い同人誌だと思うんだ、ほんとに。公式がこっそり目を瞑っててくれる、同人誌…みたいな。良くないこと言ってるから、内緒だよ。

 

しょりそうは、とっても女の心をくすぐってくる。

自分って要素をちょっとだけ加えることができて、見る人によって違う姿を見せてくれる。

小さい頃に舐めた、だんだん味が変わっていく飴みたいな。自分の選択で結果が変わる心理テストみたいな。つける人によって少しずつ色味を変えるリップみたいな。

 

そういう少しのどきどきとときめきがあるのが、たぶん私がしょりそうを好きになる理由。だし、同じときめきを持ってる人は、他にもいるって私は思ってる。しょりそうを考えると、女はいつでも少女に戻れる(ポエム)

 

 

③しょりそうのこれからってどうなるんだろう。

 

これは、なんかもう、あまり考える必要がない気がする。

だってどう転んだって「はあ〜〜〜しょりそう」ってブヒる未来しか見えない。

なんといっても、自由度の高いコンテンツだから。しょりそうが動いたら、その背景を考えるのはこっちだから。そしてそれがあちらから許されてるから。

あ、でもちょっと真面目な話をすると、私は「しょりそう氷河期」が来るとは思ってる。

ふたりは全く似てないから。どっかで絶対意見の相違があるし、鬱憤も溜まる。今は、たぶんじわじわ仲を詰めていちばん楽しい時期。でもそれをすぎれば、当たり前に喧嘩する時期が来ると思う。それはそれで、怖いけど楽しみでもある。

 

ちょっと脱線しちゃったな。

まあなんにしろ、私はしょりそうの将来にあんまり心配をしていない。てかそれは、私が考えることじゃない。真面目なあの子たちなら、とんでもないことにはならないだろうし、明確な形を持たない2人だからこそ何をしても「しょりそう」でいられる。それは『ingな関係』な一部なわけだから。しょりそうみてると、めちゃめちゃ長期連載の漫画とか読んでる気になるよ。休載しないでね。

あと『ingな関係』であることが明記されてるから、「私はこのときのしょりそうが好き」って言うことも許されてる。昔ちょっと言ったことがあるけど、私はたぶんしょりそうがおじさんになっても「少年であったしょりそう」を背景に彼らを見ていく。それが許されるのも『ingな関係』って言葉の持つ、深さとエモさの力じゃないかな。

 

 

まあ色々言ったけど、しょりそうはおたくが考えるまでもなく、ずるくて最高な答えを出してた。すごいや(小並)あんまり考察するいみなかったや(無力)

 

散々変なこと、勝手なこと言ったけど、充電器が壊れていらいらしてるおたくの寝言なので、怒らないでください。ほなまた。

佐藤勝利に出戻りしてしまった自分の話

 
 
 
勝利担に出戻りしてしまった。こんなブログ書くのどうなのよ、って自分でも思うけど、お願い書かせて。スーパー自分語りな自覚はある。ていうか、出戻りをした自分について書きたいんだから、自分語り以外の何でもない。ただ、まとまらないこの気持ちをぶつける場所がどうしてもほしい。
 
 
 
 
 
 
 
たぶん、ちょうど一年くらい松島担をして、勝利に出戻りした。その前に勝利担をしていたのは半年くらい。2014年の暮れに勝利がきっかけでSexy Zoneにはまって、Cha-Cha-Chaチャンピオンの頃に松島担だって名乗った気がするから、たぶん本当にきっかり一年くらい松島くんを基軸にした。
 
 
 
最初にちゃんと言っとくと、この出戻りは松島くんから興味を失ったとかそういうんじゃない。松島くんのこと、自分でもきもいなって思うくらい、大好きで、尊敬してて、愛してる。
 
ただ、私の中のアイドルに対する欲求が変化した。そういう話なんです。
 
 
 
私はSexy Zoneが初めて好きになったジャニーズだから、ジャニオタになって一年半。
 
アイドルに求めるものを模索した期間だったんじゃないかなあ、って思う。少し前に、私こんなツイートしてた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャニーズは、アイドルは、自分にとって一番遠い存在でした、一年半前まで。
 
きらきらして、眩しくて、少しだけ恥ずかしい世界だった。抽象的で、いるのかいないのか分からない偶像が、アイドルだと思っていた。アイドルは回りがアイドルに仕立て上げるものだと考えていたから、そういうファン含めて自分には縁のない世界だと思っていたよ。けれど、圧倒的な佐藤勝利の美しさがきっかけで、Sexy Zoneを好きになった。今まで自分の中になかった世界を知った。アイドルを身近なものとして認識するようになった。けれど、そこから私はまた元の偶像としてのアイドルに原点回帰した。ここ最近の話。
 
これが、一連の流れ。私は「アイドルは偶像である」っていう前提のもとに佐藤勝利に引き込まれて、その前提をまた見つけなおすと同時に佐藤勝利に出戻りした。
 
 
 
じゃあ、松島くんを担当にした一年は何だったの?って思われると思う。でもね、あのね、お願い言わせて。松島くんを好きになったのは、嘘じゃない。
 
すっごく言い訳みたいにきこえるかもしれないけど、松島くんに飽きたんじゃない。嫌いになったんじゃない。松島くんを確かに好きになった自分はいるの。少し前に私は、こんなブログ書いてる。
読まなくても、この文章は全然繋がる。し、私も恥ずかしいから、ちょっとリンクを載せるのためらった。
なんとか羞恥に耐えながら読み返したけど嘘はなかったよ。私は確かに松島くんが好きだった。そして今だって好き。
 
でも、今の状況を言い訳するなら「心境の変化」って、ほんとに、それだけなんだと思う。
 
どうしようもないくらいの自分語りなんだけど、去年一年間、私生活で大きな変化があって、勝利くんどころか結構まじでアイデンティティを失った。とっても、とっても恥ずかしい表現だけど。そこで私が縋ったのが、松島くんだったんじゃ、ないかな、とか。以前自分が書いたブログを読んだけど、私自分と松島くんが似てるって感じてた。なんて傲慢なんだろうって自分で思う。でも私は「普通の女の子」である自分、どころか「普通にすらなれないような気がする自分」にコンプレックスを抱えている。だから、「普通の男の子」が「アイドル」になっていく物語を持つ松島くんを好きになった。ほんとうに、ほんとうに恥ずかしいけど、松島くんに自己投影をして、自分を保とうとした。恥ずかしい。恥ずかしくて辛 い。ただ、私は、努力の人である松島くんを尊敬して、こうなりたいと思ったんだよ。それが一年間松島くんを見つめた動機なんだと思う。
 
 
 
私、たぶん松島くんを消費した。自分でも認めたくないけど事実だと思う。けど、許してほしい、お願い。松島くんを好きだった時間は間違いなく自分のものだった。松島くんを担当とした一年間は、気分による寄り道じゃない。松島くんを好きな私は存在したし、今も存在する。それは違うベクトルでアイドルを見る自分なんだと思う。
 
 
 
佐藤勝利の圧倒的な美しさがきっかけで、私は知らない世界に飛び込んだ。Twitterを始めたり、ブログを読んだりして、いろんな人の見るSexy Zoneを私も見た。そこには、私が好きな佐藤勝利もいたし、知らない松島聡もいた。そういうものを少しずつ吸収していくうちに、「自分が好きになった佐藤勝利」を見つけ出した。それは同時に自分のアイデンティティを認識することでもあったような気もする。私にとってはね。
 
 
 
だから、私は佐藤勝利に出戻り、してしまう。
 
 
 
あとそう。自分がこの一年でより音楽にかかわるようになったこともちょっとだけ関わっているかもしれない。私は10年以上音楽は続けていたけど、元々関わっていなかったジャンルに1年前から関わってる。そういうとこでも、勝利は自分がくすぐったく感じるものを与えてくれるから、好きなのかもしれない。
 
 
最後にね、松島くんにしろ勝利にしろ、変わらないのは私はアイドルにあこがれを抱いているって事実。アイドルはアイドルとして消費するものだということは分かっているつもりだけど、それ以上の内面を理解しようとするとこが自分はある。無理なのにね。
 
でもこれが、私が考えてる「アイドルは偶像である」ってことなんだと思う。
 
佐藤勝利は、ひたすらに美しい偶像として、私のなかに存在している。恵まれた容姿と、はかれない内面をもった美しい偶像。それが私にとっての佐藤勝利で、出戻りを決めちゃった男なんだなって、思う。
 
 
そういうわけで、勝利担に、なりました。愛想尽かされそうだけど、どうか許してください。
 
 
 

ヒメアノールと感情移入

 

ヒメアノールをみてきました。完全に森田くん目当てです(ミーハー)

 原作も、パンフも読んでない、映画だけの感想言います。
ネタバレします。純粋に、まじで「私の」感想だよ(私という要素を消せた感想ではないよ)
 
 
私なりに感想をいうと、森田くんに感情移入ができそうでできない映画だった。
ラストの何分かの高校時代の回想とか、間にあったいじめられてた描写だとか。そのへんで「森田くんにも、人間らしいごく普通の高校生としての感情があったんだなあ」とか「あんないじめられ方したら、殺したくもなるよな…」とか一瞬思いかけたんだけど、冷静に考えて、
 
 
ねえよ。
 
 
100歩譲って、いじめてた子(名前を忘れた)を殺した、最初の殺人は見逃そう。一緒にいじめられてた和草くんも、最初こそ怖気付いたものの、結局めちゃめちゃひどい暴行をしていたわけだし。いやまあ正直私はどっちの気分もちょっとよくわかんないんだけど。
 
けど、そのあとの暴力性に関しては、ちょっとまじでわからない。
 
簡単に言っちゃうと、森田くんは天性のサイコパスでした、って話なんだけど、それはなにか違うよなあ…何が違うっていうのは言えないけど、違うよなあ…って私は思う。
たぶん、なにかあの暴力性を手に入れるきっかけっていうのはあったと思うんだけど、それは岡田くんに裏切られたことでもなく、いじめの鬱憤が原因でいじめっ子を殺したことでもなく、きっともっと前にある。たぶん、森田くん自身にしかわからない深淵にある、気がする。
岡田くんは、自分と出会った頃の森田くんは、もっと普通の奴だった、って思いたがっているけど、本当にそうかな? 既に、森田くんはサイコパスの片鱗を見せていたんじゃないかな? その証拠といっちゃだけど、岡田くんは教室でオナニーさせられたときの森田くんの目に縛られていた。岡田くんは、森田くんが人を殺す前に彼がサイコパスであることを知っていたよ。幸か不幸か、それは「友だち」として心の距離が離れていなかったからかもしれない。そう思うと、最後の回想の深みが増すなあって私は思う。
 
 
感情移入、って観点に少し返ってみる。
 
岡田くんなわけだけど、彼に関しては自己投影ができすぎてしたくなかったよ…
人生に不満を感じてて、くすぶってて、自分の人生何なんだろうって考えてる。めちゃめちゃ感情移入しやすいですよね。
だから私は冒頭から、かなり感情移入してた。ものすごく無自覚になんだけど。わかる、私も多分めっちゃタイプの異性から「こっそり付き合えばバレない」って言われれば付き合うよ、とか思ってちょっと笑ってた。
そのまま無自覚な感情移入を続けて、映画を楽しめれば良かったんだけど、私がはっとした、っていうか自分、岡田くんに感情移入してるって気づいちゃった、愕然とした瞬間があって。
 
それが、回想のいじめのシーンでした。
 
自慰をさせられる森田くんみて、笑ったんですよね、私。だいたい口元に手を当てて観ていたんだけど、確かに口角が上がってた。
私あのシーンで純粋に笑えるほどいじめっ子なつもりはないし、いま思い返してもぜんっぜん笑えない。けどなんで映画館で自分笑ったのかって考えたら、たぶん岡田くんにとっても感情移入していたからなんだなって。あのシーンで彼は「笑わなくてはいけなかった」わけだから。
それから先、ちょっとだけ自己嫌悪みたいなのして、岡田くんの気持ちがわかる度、うわあ…って気分になった。
でも、最後の展開で、自分と岡田くんは絶対に違うなって思った。あの場で森田くんに「ごめん」って言える?私は言えないよ。つまり、自分と岡田くんは似て非なるものっていうか、端的に言うと自分の方がはるかに小さい人間だったってこと。観終わったあとのずーんって気持ちは、このへんにも一因あるかもしれない。
 
あと、考察したいのはユカちゃん。
この映画で唯一死体としてでなく、詳しく描かれてる女の子なんじゃないかな。
可愛くて、純情で、でもエッチで、とっても良い子。最初っからあざといな〜、ってにやにやしながら私は観てた。
女としてすごく嫌な感情だけど、こんな女いるかよ!って思いながら観ていたよ。くっそ〜計算が!あざとい!けどかわいい!悔しい!みたいな。
 
ユカちゃんのかわいい行動が全部天然だとは思っていなくて、天然半分、計算半分くらいかな〜って私は思ってる。
 
なんかそういうところも含めて、かわいくてかわいい、ひたすらにかわいいよね。
 
けどさ、もし森田くんがユカちゃんに出会わなければって考えてみたんだわ。
そしたら、何人が死なずに、森田くんに殺されずにすんだんだ?って。
 
なんていうか、ぞっとした。天真爛漫であのかわいい子が、殺人鬼をさらに殺人鬼にしたっていう、殺人鬼と何も関係ない人を結びつけてしまったんだ、っていう事実にさ。
 
でもこの映画、そういう面ユカちゃんに限らずあると思う。関わるはずのない人が森田くんと関わって殺されてしまうっていう。
その関係図を辿っていくと、殆どがユカちゃんに繋がると私は思ったんだけど、ほんとにユカちゃん恐ろしい子だ。
何も悪くないよユカちゃんは。でも可愛くて、あざとくて、罪深い女だな、って私は思う。
ちなみに感情移入って点においては、私はユカちゃんに全く共通点を見いだせなかったから厳しいよ。
 
ざっと感想はこんな。
他にもちょいちょい言いたいことはあるけどとりあえずは。
 
また書きたいなあって思ったらこっそり書き足すかもしれない。
 

わたしの好きな松島くん

 

私、Sexy Zoneを、松島くんを好きになってしばらく経つんですけど、具体的にどのへんが好きなのか分かっていませんでした。でもなんとなく分かったような気がしたから書いてみた。割とざつに簡潔に書いた。

所謂自分語りです。でもとりあえず、私は松島くんが好きなんです。そんなお話を、ちょっとした主張をさせてください。

 

 

たぶんだけど、私の好きな松島くんは人間な気がする。アイドルじゃなくて、人間。

もちろん、アイドルとしての松島くんも好き。

精悍さとあどけなさの両方ある顔も、声変わりを経て甘くなって少しの不安定さが色っぽい声も、指先まで意識した丁寧なダンスも、全部好き。

でも私がいちばん好きなのはその裏側に潜む松島くんの人間らしさ、だと思います、たぶん。

時々見える自信のなさが私は好きです。そこから予想のつく努力がもっと好きです。

たぶん、私ができないものだから、こんなにも惹かれるんじゃないかな、なんて。私は、努力とか忍耐とかが、あんまり得意じゃないから。

松島くんは、努力に努力を重ねて自分を魅せることを覚えました。私はそれに少しだけ憧れる。

もちろん松島くんは、普通の人より全然かっこよくて、そんな次元の違う人に憧れを持つのが間違いなのくらい理解してる。でも、私は普段の松島くんにすごく「普通の男の子」を感じちゃう。お洒落が好きで、ちょっと天然で、みんなに可愛がられる弟みたいな男の子。

でも、そんな普通の子が直視できないくらいのアイドルになってる。

普通の男の子が、あんなにもアイドルをしているって現実。めっちゃエモくて、眩しくないですか。

きっとそうなるためには尋常じゃない努力や自己分析が必要で、私はそこが好き。私にはできないから。つまり、したかどうかも分からない(しているだろうけど)、絶対にファンは見ることのないそんな過程を想像して勝手に好きだって言ってるんです、私は。考えてみれば、すごく馬鹿で変な話。

 

でも好き。すっごく、めっちゃ、松島聡くん好きだ。

 

たぶん、これからも私は松島くん尊敬して生きてくんだろうなあって思う。尊敬しているって言いながら、「聡ちゃんお馬鹿だなあ」とか、ちょっとだけ軽んじた発言もして、「今の松島くんめっちゃえろいね!?」とか、消費者らしい発言もして、たぶん頭の悪いファンを続けてく。

でも、絶対に松島くんの努力を否定することは言わない。ように、したい。

だって好きなんだもん。憧れてるんだもん。

私は、私には絶対にできない努力をしている松島くんが好き。母性でもないし、恋でもない。でも好き。

 

だから、私は松島くん追っていきたい。

松島くんが努力を積んだ末にどんな大人になるのか、知りたい。そんな、馬鹿みたいなエゴのために、私は松島くんのファンでいたいな。

ほんとに馬鹿みたいだけど、松島くんを「普通の男の子」だって思い込んで、「普通の女の子」である自分も、努力すれば何か変わるんじゃないか、って、そんなありえない願望も少し含んで、私もは松島くんが好きです。